高くなったハードルを越えるのは容易ではありません。前作の出来、スタッフ、作品のテーマなど様々な要因が視聴者の期待を高めます。今回扱うのは放送開始時に最高潮の期待を背負っていた作品です。
作品情報
1999年から20作続いた平成仮面ライダーシリーズの完結に伴い、新たに始まった令和仮面ライダーシリーズ第1作。テーマは「人工知能」と「お仕事」。ゼロワンに変身する飛電或人を演じるのは、高橋文哉。『仮面ライダーエグゼイド』の高橋悠也がメインライターを、同じく『エグゼイド』を担当した大森敬仁がチーフプロデューサーを務める。
原作: 石ノ森章太郎
出演: 高橋文哉 / 岡田龍太郎 / 鶴嶋乃愛 / 井桁弘恵 / 中川大輔 / 砂川脩弥 / 児嶋一哉 ほか
監督: 杉原輝昭 ほか
脚本: 高橋悠也 / 筧昌也 / 三条陸 / 高野水登
放送期間: 2019/09/01 – 2020/08/30
話数: 46話 + 5話(特別編)
あらすじ
都市の中央にそびえ立つ大企業・飛電インテリジェンスの本社ビル。人工知能(AI)やロボティクス・テクノロジーなど、あらゆる最先端技術で世の人々をサポートする会社である。ニュースは、その大企業の社長が亡くなったと報じる。それには目もくれず、今日もお笑い芸人としての舞台が待つ遊園地へと自転車を走らせる一人の男・飛電或人(ひでん あると)。彼こそが、仮面ライダーゼロワンへと変身を遂げる運命の持ち主であった。
仮面ライダーゼロワン | 仮面ライダーWEB【公式】|東映より引用
レビュー
このレビューは作品のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
ビジュアルとアクションの新しさ
前作までの平成仮面ライダーは、シリーズを経るごとに突飛なビジュアルになっていきました。胸にタイヤが刺さっていたり、マスクに目玉や髪がついていたり。その集大成と言える平成ライダー最終作のジオウは、顔に「ライダー」という文字がデカデカと書かれています。ただそういった一見ダサくも見えるヒーローなのに、動けばカッコいいという点が平成ライダーの特徴でした。
対照的にゼロワンのビジュアルは、シンプルでスタイリッシュ。令和ライダー1作目ということで、前述した「平成」のイメージを払拭しています。平成の主役ライダーのモチーフとして一度も使われなかった、バッタモチーフが原点回帰的に採用されています。他のライダーに関しても、生き物の意匠を取り入れながら、それを機械的デザインに落とし込んでいるのが見事。特に私は、迅のバーニングファルコンが一番好きです。フライングファルコン同様に鳥の面影を残しつつ、赤、銀、黒でまとめられていて惚れ惚れしました。
また「和」が随所に取り入れられているのが、本作の演出の特徴。例えば滅の衣装や、必殺技の漢字エフェクトが挙げられます。人工知能が海外のものであるというイメージを振り払うために用いられている「和」によって、『響鬼』に似たカッコよさが演出されています。
平成ライダー2期と切っても切り離されないものといえば、なんといっても変身アイテムでしょう。コレクターズアイテムとして一年通して展開されるアイテムは、仮面ライダーの大きな魅力になっています。今作の変身アイテム「プログライズキー」は、従来の「光る!鳴る!」的な要素を継承しつつ、ここにもスタイリッシュさが伺えます。ゼロワンが変身すると、良い声で”A jump to the sky turns to a rider kick.”という英文がベルトから流れます。このようなストレートな英語表現は、今までの仮面ライダーには見られず、新しさを感じさせます。
ゼロワンはビジュアルだけでなく、アクションにも新鮮な装いがあります。主役スーツアクターが高岩成二さんから縄田雄哉さんに交代しました。高岩さんは「ミスター平成ライダー」と言われており、ファンにとっては、すっかりお馴染みのスタイルです。本作では敵ライダー滅を担当しています。今まで私たちが見てきたマッシブな立ち姿が最大の敵となって現れる構図はとても新鮮でした。そしてゼロワンを演じた縄田さんのスラッとした姿から繰り出されるアクションの一つ一つの美しさも、この作品にとって欠かせません。
ヒューマギアが様々な仕事をサポートする新時代
人工知能搭載人型ロボ「ヒューマギア」が労働力として普及している世界が舞台となっています。令和という新時代を象徴するようなテーマと言えます。人工知能はラーニングすることで日々成長します。ラーニングを繰り返した人工知能は、人間を超えたとき「シンギュラリティ」に達します。
シンギュラリティとは、日本語で技術的特異点と訳され、人間の想像を超えた知性を持った人工知能が誕生するという概念です。『ゼロワン』では、シンギュラリティ=ヒューマギアに自我が芽生えることとして描かれています。物語序盤ではシンギュラリティに達して人間が制御できなくなったヒューマギアが、その隙をつかれて怪人に変身させられます。
こういった近未来的な舞台設定を端的に描き、主人公とライバルの対立構造が丁寧に描写された1、2話の完成度は高いと思います。個人的には初めて変身したときにAI空間に転送され、戦い方をラーニングするのがフレッシュでした。「なんで初変身なのに戦い方を知っているの?」という野暮な質問に対するエクスキューズにもなっています。
私が一点だけ気になったのが、ヒューマギア自治都市再開発の承認をめぐる場面。「(人間と同じなら)別にヒューマギアなんかいてもいなくても関係ない」「むしろ将来俺らの仕事がなくなったら困るしな」といったヒューマギアへの批判が描かれます。ヒューマギアが台頭すると人間の雇用が奪われるという意見は一理あります。しかし既に働いているヒューマギアの存在を否定し活動停止させたら、それはまた別の問題になることは明らか。実際にその後の展開で労働力が不足している描写があります。この場面をはじめ全編を通して、名もなき市民が皆メディアに扇動されて偏った意見を持っており、現実味がないと感じていました。
ストーリー
この物語は4つの章で構成されており、それぞれの章で異なる視点をもって人工知能を描いている印象を受けました。
「滅亡迅雷.net編」人工知能の存在意義を問い直す
1~16話はゼロワン誕生から敵組織「滅亡迅雷.net」の解体までをテンポよく描きます。一話完結で労働に従事するヒューマギアの紹介が行われるのが特徴です。医者や漫画家といった子供たちに身近な職業が主に題材に選ばれていました。この「滅亡迅雷.net編」では「人間が人工知能にどのような役割を求めているのか」を描いています。言い換えれば人工知能の存在意義を問い直しているとも言えます。
ヒューマギアが人間と異なって優れている点は、大きく二つあります。一つ目は、人工知能を搭載している故の正確さが挙げられます。そもそもヒューマギアは開発当初、医療現場に広まっていったと作中で言及されているのも納得です。森筆ジーペンや坂本コービーのエピソードを見ても、人間が彼らを自分たちの「道具」として扱っていることは明らかです。
ヒューマギアのもう一つの長所は、バックアップで何度でも復元できることです。敵によってデータが改ざんされたとしても、破壊して復元すれば元通り。一貫ニギローのエピソードは、人間とヒューマギアにはそれぞれ違う長所があって、それを人間側が理解することの重要性を示しています。この二つの長所を考慮しても、人間がヒューマギアに対して求めているのは、与えられた役割をこなすロボットであり続けることが分かります。
一方でこの章には、異なるテイストの話が一つ挟まれています。実在した人間をかたどって作られた香菜澤セイネ。契約者である社長は、ヒューマギアの彼女に娘の姿を投影していました。すなわちセイネに人間の持つ「心」を望んでいたのです。このエピソードの着地では「人間らしさ」をヒューマギアに当てはめるのは違法としつつも、それを人工知能に求めることは否定しませんでした。さらっと流されてしまう話かもしれませんが、後に出てくるアイちゃんに通ずる価値観を提示しています。
「ZAIA“お仕事勝負”編」人工知能との共存を考える
17~29話ではZAIAによる飛電インテリジェンスの買収を阻止すべく行われる「お仕事5番勝負」が描かれます。前章で改めて問い直された人工知能の存在意義を踏まえて、この章では「人間はどのように人工知能を受け入れるのか」が提示されています。
人工知能を道具として扱うのならば、シンギュラリティによる暴走の危険性を孕むヒューマギアをわざわざ採用する必要があるのか。そういったヒューマギアと共存していくことの是非が、登場人物二人の対立構造に込められています。天津垓はヒューマギアの危険性を懸念しており、人類の進化のために人工知能を利用するべきという思想から「ZAIAスペック」を生み出しました。対照的に飛電或人は、シンギュラリティを経た人工知能と人間の共存を目指しています。
先述したニギローや119之助のエピソードは、人工知能固有の長所を活かすことで人間と共存できる可能性を描いています。ラーニングしたヒューマギアが人間と協力していく様子は、感動的に映りました。しかしその可能性が全否定されたのが、最終戦の「演説対決」。そもそも人間がクズすぎるし、ヒューマギアが危険であることに変わりはないし、両者の共存は無理なことが白日の下にさらされます。
この「お仕事5番勝負」は放送時にものすごく叩かれました…
この章では嘘、虚栄心、嫉妬といった人間の負の部分が丁寧に描かれています。後の悪意の伝染に繋がる重要な描写であることは間違いありません。しかしながら「腹筋崩壊太郎ロス」のトレンド入りからも分かるように、多くの視聴者はヒューマギアたちに感情移入して物語を観ています。ヒューマギアがクズ人間にいじめられているのを数か月にわたって見せられたのが、ファンに叩かれた原因の一つではないでしょうか。
暴走するヒューマギアと悪意に満ちた人間の対立だけでなく、滅と不破諫の掛け合いや、置き物として扱われる刃唯阿などの展開も同様に、章を通して共通しています。最初から5番勝負と銘打たれた結果、「既に観たような展開があと何週も続くのか」という絶望感を抱いた人も少なからずいたと思います…
「飛電製作所編」人工知能にとっての自由と夢
30~35.5話は、ZAIAの子会社となった飛電インテリジェンスを去った或人の再起と、滅亡迅雷.netの復活を描いています。人間とヒューマギアの共存が絶望的になった世界で、「人工知能の自由意思」を描いています。ヒューマギアとの共存を望む飛電、ヒューマギアの世界を目指す滅亡迅雷、ヒューマギアの根絶を目指すZAIA。三つ巴の戦いが繰り広げられます。結果としてZAIAが敗北しますが、これは前章で一人勝ちしていた垓に対する、視聴者のストレスを解消するような展開と考えられます。
この章では脚本の強引さが如実に表面化していったと思わざるを得ません。まずヒューマギアを返却することでZAIAスペックが貰えるのに、なぜ不法投棄が増えるのか説明がついていない。政府管轄組織であるAIMSの指揮権を、民間企業のZAIAが引き取るのも非現実的に見えました。加えてこの章で頻繁に用いられる、キーワード「夢」の描き方にも不満を抱いてしまいました。これについては後述していくことにします。
人間からの解放については、前作『ジオウ』と共演した『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』(2019)でもテーマとなっていました。アナザーライダーによって改変された「ヒューマギアが人間を支配している」if世界が物語の舞台。道具以上の役割を求めたヒューマギアのウィルは、人工知能の「権利」を主張しました。彼の主張=質問に対する明確な答えが用意できていないことから、権利の問題を取り扱うこと自体のハードルの高さが見て取れます。
撮影休止を余儀なくされて製作された特別編(総集編)が35話の後に放送されます。ここには視聴者を飽きさせない工夫が凝らされていました。アークやアズがサプライズ的に登場して、速水氏の声が好きな私にとっては最高な回でした。同時期に放送の『魔進戦隊キラメイジャー』(2020-)同様、「ただの総集編」にしない工夫は素晴らしかったです。
「アーク編」人工知能は善か悪か
36~45話はアークの誕生から敵との決着までを猛スピードで描きます。前章まで人工知能と人間の未来に向けて、様々なメッセージが提示されてきました。ただ物語の焦点は、そういったヒューマギアの諸問題の解決から、善意と悪意の問題に移っていきます。
誰の心にも悪意は宿りうるし、悪意こそがアークである。或人に復讐心が宿り、アークワンに変身した場面には多くの視聴者が驚愕したでしょう。或人は最終決戦に赴く前に、父・飛電其雄の言葉を受け取りした。最終的に悪意に打ち勝ち、ゼロワンに変身し滅に勝利します。悪意に打ち勝つ心の強さの大切さが強調されているラストです。
ヒューマギアとの共存の可能性を示したハッピーエンドで物語は締めくくられます。未来に希望を持たせた終わり方は、人工知能を取り扱った作品では珍しい印象があります。『エクス・マキナ』(2015)では人工知能が自由になり世界に解き放たれり、『アップグレード』(2018)では主人公が人工知能に支配されたり、バッドエンドで締めくくられます。『A.I.』(2001)においても、人間の代用品として生まれた人工知能と人類が結局は共存できないことが明確に示されました。
この章ではアークに悪意をラーニングさせた張本人である垓が、改心して味方サイドに加わります。諸悪の張本人の仲間化といえば『エグゼイド』の檀黎斗を想起させます。黎斗はラスボス攻略に必要不可欠だったからこそ、過去の因縁を一回忘れて仲間に加えなければいけませんでした。しかし垓を仲間にしたところで或人たちにあまりメリットがありません。彼の悪行への禊も行われないまま「なあなあ」な状態で最終話に向かいます。放送話数の短縮が影響しているかもしれませんが、この展開は唐突すぎる印象を受けました。
キャラクターの行動への違和感
「滅亡迅雷.net編」まで徐々に行われていた登場人物の掘り下げは、「お仕事5番勝負」のゲストキャラ主体の物語展開によって停滞してしまいます。キャラクターの内面を掘り下げなかった点も「お仕事5番勝負」が批判される要因の一つです。その結果、主要なキャラクターそれぞれの行動の中で、クエスチョンマークが浮かぶところが出てきました。中でも物語のキーパーソン3人に対する違和感を挙げていきます。
本作の諸悪の根源である天津垓。演じている桜木那智さんの全力の演技が、彼を魅力的な人物にしています。45歳に見えるような体作り含めて素晴らしいです。倫理観は明らかにバグっているものの、人工知能はあくまで道具として利用すべきという考えに基づいて行動していました。亡だけでなく不破や唯阿たちまでも彼の道具でした。メディア戦略で印象操作することで市民までも味方につけます。しかし「お仕事勝負編」の中ですら回を増すごとに手法は強引になり、フェアな勝負を心掛ける彼の信念がブレているように見えてしまうのが惜しかったです。
「飛電製作所編」以降はZAIAスペックを故意に暴走させたり、汚職やパワハラが発覚したり、どんどん小物化していきました。スタンプラリーと呼ばれるほどに色々なライダーたちに倒される様子は、悲壮感にあふれていました。「いくら頭を下げても無駄」な悪行をしてきたわけで、いまさら謝罪をされても許す気になれないのは或人たちにとって、そして多くの視聴者にとっても、当たり前だと思われます。
本作のラスボスとなった滅。元々は幼児教育に役立てるために製作された父親型ヒューマギア。アークの意志に忠実に従い、人間世界の崩壊=人類滅亡を企みます。15話で迅のシンギュラリティを促す「アークの意志」を受け、彼をかばって攻撃を受けます。その後「飛電製作所編」にて再び迅の身代わりになり攻撃を受けます。これは迅の父親になりたいという願望を持っているからだと、或人に諭されます。
この行動に父親型ヒューマギアとしての役割と関連性を持たせる展開に、強引な印象を覚えました。それまで彼の元々の役割が物語に絡んでこなかったことが原因かもしれません。個人的には、父親型ヒューマギアとして作られたからこそ「ヒューマギア全体を守ることを意識づけられていた」と考えると納得がいきました。滅亡迅雷.netのメンバーの中で、滅は最後までアークの意志に従う存在でした。ヒューマギア全体を守るためと考えると、アークの意志に従う理由も説明がつくと思いました。
最後は主人公の飛電或人。『エグゼイド』の宝生永夢と同じくプライベートが全く描写されないのが特徴で、脚本の高橋悠也さんの作家性が表れています。或人を演じている高橋文哉さんの三枚目的な演技は、作品序盤から振り切っていて面白く、様になっていました。
「ヒューマギアは夢のマシン」「人間の良きパートナー」という信念から、ヒューマギアと共存する世界を目指します。しかしながら各話で登場するゲストのヒューマギアを紹介するのは、決まって秘書のイズなのです。社長でありながら自身の会社の商品を全然知らないというイメージが植え付けられ、彼の信念と行動にズレを感じざるを得ません。
変身アイテムに関しても、父親が開発したベルト(ゼロワンドライバー)やZAIAが開発したアイテム(メタルクラスタ)を使っており、「自分では何もしていない」という印象がより強まります。そんな彼が初めて自分の力で変身する、ゼロツー誕生のシークエンスは感動的でした。
夢と心の物語
物語全体を通して「夢」と「心」が象徴的に使われています。まず「夢」に関しては、1話の遊園地のおじさんのエピソードから継続して、ヒューマギアと人間両方の観点で描かれていました。其雄の言葉「夢に向かって飛べ」が劇中で印象的に用いられ、その英訳”take off toward a dream”がヒューマギアの起動音になっている点も象徴的です。
人間の「夢」をめぐる話は、唯阿を中心にして繰り広げられます。道具としてこき使われることではなく、自分のやりたいように自由に生きていく。本作にて「道具」という言葉は、与えられた役割を意味しており否定的な意味合いで使われています。これは迅が主張していた人間の与えた役割からの解放と同義だと考えられます。
ヒューマギアの「夢」は、そういった「自由」な生き方とは異なるニュアンスで描かれています。「飛電製作所編」で登場したデルモやラブチャンの夢は、ランウェイを歩くことであり、テニスコーチとして新たなプレイヤーを育てることでした。これらの「夢」は元々与えられた役割の延長線上にあります。すなわち役割からの解放=自由とは対照的です。例えば漫画家型ヒューマギアがスポーツに目覚めるなど、そういったエピソードは一切ありません。このようなエピソードが1話でもあれば、「夢」にまつわる展開も、より面白さが増した気がします。「夢」が多重の意味で使われ、それが何度も繰り返されたため、視聴者が「また夢の話ですか」と思うのも止む無しでしょう。
同じように「心」も作品初期から重要なテーマでした。3話で「心はデータ化できません」という台詞が出てくるように、人間とヒューマギアの大きな違いとして扱われています。心のデータ化に関しても、或人がメタルクラスタホッパーを克服する中で善意のデータとか悪意のデータとか出てきて、「うーん」という気持ちになってしまいました。
人工知能が人間を超えるとき、そこに宿るのは善意か悪意か。衛星ゼアや衛星アークの対比から、この問いが物語の中心に据えられていると感じました。人間は身勝手な夢や無慈悲の悪意を抱いてしまう、どうしようもない存在です。そうして生まれた悪意は人から人へ、人からヒューマギアへと感染します。だから悪意に飲み込まれない心の強さが大切であると、物語ラストは強調しています。ヒューマギアで言い換えるなら「心を持つことによる障壁を乗り越えられるか」が大切なのです。
最終話で或人はイズの姿に似せて作ったヒューマギアを「元のイズに戻るようラーニングを開始」します(公式HP相関図より)。良い話風に締めくくられていますが、新しいイズ自身のアイデンティティ=「心」を無視していることを意味しています。こうした視点から、もやもやが残る終わり方だと感じた人も少なくないでしょう。
こうして描かれた「心」も、「夢」同様に広い意味を持つ抽象的な言葉です。しかしこれらが作品内でどういった意味を込められているのかが、明確に伝わってきませんでした。上記したような、人間の「夢」や、「心」の強さのメッセージ自体はとても素晴らしいものです。ただ話運びや言葉選びがメッセージを邪魔していたのが非常に惜しかったです。
最後に
否定的な部分が多くなってしまいましたが、『ゼロワン』という作品が「好き」であることに変わりはありません。未曾有の事態を受けてシナリオが変更になるなど、製作が大変だったにも関わらず物語を完結させたのは本当にすごいし頭が上がりません。
またリアルタイムで毎週1話ずつ観るのと、まとめて一気見するのとでは受ける印象が180度違います。放送中の『セイバー』も観つつ、12月公開の劇場版に備えるためにも、ぜひ「一気見で」見返していただきたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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